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AIで企業価値は本当に上がるのか? -医療業界の先行事例-

2026/4/14

    AIが労働を代替しSaaSよりも遥かにTAMを拡大するという論がある。しかし、この論はAI導入側から見れば、その経営効果は人件費が上限に過ぎないとも言える。一方、海外ではAIによる業務効率化を通して整理された非構造化データがトップラインの成長に貢献している事例も出始めている。本レポートでは、医療業界のAI適用事例をアナロジーとして、AIで本当に企業価値向上は向上するのかという問いへの考察を進める。

    第1章 AIエージェントのTAMは労働市場まで拡大するという論への問い

    米国のVCセコイアが投稿した「Services: The New Software」が注目を集めている。AIエージェントのTAM(獲得可能性のある最大市場規模)を従来のソフトウェア産業から労働市場へ拡大再定義するという論だ。

    従来のSaaSは業務プロセスをソフトウェアのUI(操作画面)に載せることで効率化した。AIエージェントはその先にあるWork(業務の実行そのもの)を代替する。企業のソフトウェア支出1ドルに対しサービス支出は6ドルに上る。AIエージェントが最終的に狙うのはこのサービス支出の領域であり、AIエージェントが狙えるサービス支出の総額は、クラウドが切り開いたソフトウェア市場の少なくとも10倍に上る。保険ブローカー(~$200B)、会計・監査(~$80B)、医療請求(~$80B)など、業種ごとに数百億ドル規模の市場が並んでいる。

    まずコパイロット(専門家にツールを売る段階)があり、やがてオートパイロット(最終ユーザーに成果物を売る段階)へ移行する。コパイロット企業は将来、顧客である専門家の仕事そのものを代替する方向に進むが、既存顧客との利益相反がその転換を阻む。ここに純粋なオートパイロット企業の参入機会が生まれる理屈だ。AIの市場機会を、ソフトウェアのライセンス収入ではなく人間が行っている業務の総コストで測る。この発想の転換はAI投資への正当性をさらに強化する。

    ただし、この議論はあくまで「AIを売る側」の視点で語られている。


    第2章 労働代替だけでは企業価値は上がらない

    前章のセコイア論はAIサービスを「売る側」また「投資する側」の視点である。しかし、我々が支援する大手企業層はAIサービスを主に「活用する側」だ。AIを自社の業務やビジネスモデルに適用することで最終的に企業価値を上げることが目的だ。

    導入企業にとって、AIによる「労働の代替」は人件費削減と同義である。対象業務に従事する人員の総人件費がコスト削減可能な天井となる。セコイアが描いた数百億ドル規模の市場機会は、裏を返せば、導入企業側から見れば数百億ドル分のコスト削減余地にすぎない話なのだ。

    しかもこの天井は、日本企業の場合さらに低い。解雇規制と終身雇用慣行のもとでは、AIが業務を代替しても人員を簡単には削減できない。「AIで何人分の業務を効率化した」と言えても、その人件費がPLから消えなければコスト削減にならない。配置転換で吸収やコアシフトするにしても、即座に損益へ反映される性質のものではない。

    市場からの評価においても、コスト削減のストーリーには限界がある。EBITDAの改善には寄与しうるが、企業の成長力やビジョンを示すのはやはりトップラインである。コスト削減は利益率を改善するが、事業そのものを大きくするわけではない。PEのポートフォリオ企業であれ事業会社のグループ企業であれ、「AIで生産性が上がった」は経営のストーリーとしては弱い。

    ではAIの適用がトップラインに効く道筋はあるのか。


    第3章 基幹システムの外側に眠るデータ:Epicとアンビエントスクライブ事例①

    AIの導入がトップラインに効く道筋はあるのか。ここで一つ、医療業界のアナロジーを紹介したい。

    米国の電子カルテ市場を支配するEpic Systemsは、3億人超の患者記録を擁し、病院向けEHR市場でシェア約36%を占める。カルテというSystem of Recordとワークフローの両方を押さえた、医療界のSAPのような存在だ。

    LLM以降に登場したアンビエントスクライブ(ambient scribe)と呼ばれるAI技術が、このEPICの牙城を結果的に脅かす形となった。アンビエントスクライブとは、会話をAIが環境音として拾い、音声認識とLLMでリアルタイムに構造化されたデータに変換する技術である。医療業界では医師と患者の診察会話を聞き取り、専門ナレッジベースにより構造化してカルテに記載するサービスとして応用された。Nuance DAX Copilot(マイクロソフト傘下)が2020年にベータ版として市場に出たのを皮切りに、Abridge、Sukiなどスタートアップが続き、a16zやSequoia等の著名VCや、GoogleやNVIDIA、OpenAIのCVCも投資している注目領域だ。その後、Epic自身もアンビエントスクライブ機能を内製化した。

    当初の目的は医師の文書化負担の軽減だった。米国では電子カルテへの文書化作業が医師の疲弊の主因とされており、アンビエントスクライブのベンダー各社はこの負担軽減を最大のセールスポイントとして訴求した。実際に時間外の文書化作業が週2.5時間削減されるなどの効果が報告されていたが、あくまで業務効率化ツールとしての位置づけであった。

    ところが、導入後に別の効果が観測されはじめる。


    第4章 意図せぬトップライン効果:Epicとアンビエントスクライブ事例②

    米国の外来診療報酬はE/Mコーディングと呼ばれる仕組みに基づく。医師が記録した文書の複雑度に応じて請求レベルが決まり、レベル間の報酬差は大きい。実際に行った診療の複雑さを文書で正確に表現できなければ、本来請求できた報酬を取り逃がす。この請求漏れによる米国医療界全体の逸失収益は年間推計約5.4兆円に達している。請求漏れを組織的にチェックする体制がない医療機関は実際に回収できる診療報酬の3〜8%を取りこぼしている。
    (なお、日本の診療報酬は出来高払いであり、このメカニズムは米国の制度構造に固有である)

    アンビエントスクライブが診察会話を漏れなく構造化した結果、E/Mコーディングの精度が向上し、従来の手入力では反映しきれていなかった診療の複雑さが正確に記録されるようになったのだ。JAMA Network Openの研究では、導入後に診療報酬1件あたりの単価が5.8%増加し、診察件数も2.8%増加。医師あたり年間$3,044の増収に相当する。McLeod Healthでは医師あたり月$2,629の純増収が報告されている。請求却下率の上昇は確認されていない。

    医師の負担軽減を目的として導入されたツールが、基幹システムに入りきっていなかった診察会話のデータを構造化したことで、意図せず診療報酬の取りこぼしを減らした。
    (※ただし、この効果が純粋な請求漏れの解消なのか、AIによるアップコーディング(過剰請求)なのかは議論の余地がある)


    第5章 AIで成長ストーリーを描くための二つの問い

    アンビエントスクライブの事例は、臨床データと音声という特定領域の話にすぎない。しかし「基幹システムの外側に価値あるデータが眠っている」という構造は、医療に限るわけではない。企業ナレッジの80%は非構造化データとして基幹システムの外に存在しているという説もある。様々なデータが日々生成されながら、いずれの基幹システムにも流れ込まず、検索も分析もされないまま劣化していく。ここに大きな投資機会がある。

    非構造化データを蓄積する技術はDX時代から存在したが、中身の意味を解釈する能力は持たなかった。医師と患者の会話を保存することはできても、その中から診療の複雑度を読み取ることはできない。LLMが変えたのはこの点である。自然言語や音声の内容を文脈込みで理解し、構造化された出力に変換できる。アンビエントスクライブはEpicのような基幹システムをリプレイスすることなく、その外側にLLMを活用したAIレイヤーを加えただけで、これまで消えていたデータが収益プロセスに転嫁された。

    ただし、アンビエントスクライブの事例は当初は業務効率化に過ぎなく、事後的にその過程で副次的に構造化されたデータが、トップラインに寄与することに気づいた。そのLesson Learnedを応用すると、AIの適用を検討する企業は、以下の二つの問いに向き合うことになる。

    第一に、自社のどの業務プロセスが効率化できるかだけではなく、その過程で価値あるデータを獲得できる領域はどこか?基幹システムで補足できていないデータの内、どれがトップライン向上のレバーに寄与するデータか?そこがAI適用の対象とすべき業務領域である。

    第二に、AIの実装をどこまで手の内化すべきか。LLMの基盤モデル自体は外部のものを使うとしても、それを自社に最適化する環境設計やモデルの外側の仕組みまで外部ベンダーに委ねてよいのか。外部サービスをそのまま使えば導入は早いが、同じサービスは競合も使える。他方で、その仕組みを内製化できれば、それ自体が差別化要因になるが、LLMプラットフォーマが業種特化機能を搭載し始めれば、そこへのAI投資はコモディティ化リスクにさらされる。自力と他力の境界見極めが求められる。


    出典一覧

    • Sequoia Capital, “AI Ascent 2025 Keynote,” May 2025.

    • Julien Bek, “Services: The New Software,” Sequoia Capital, March 5, 2026.

    • KLAS Research, “US Hospital EMR Market Share 2025.”

    • PMC, “The impact of nuance DAX ambient listening AI documentation: a cohort study,” 2024.

    • Aptarro, “40+ Medical Billing Stats Every Healthcare Organization Should Know in 2026,” 2026.

    • MD Clarity, “Revenue Leakage in Healthcare: Sources, Impact, and Fixes,” 2026.

    • JAMA Network Open, “Ambient Artificial Intelligence Scribes and Physician Financial Productivity,” 2026.

    • Fierce Healthcare, “Rush, McLeod Health and FMOL Health report revenue gains from Suki AI scribe,” 2025.

    • JAMA Health Forum, “Unintended Consequences of Using Artificial Intelligence Scribes for Billing,” January 2026.

    • Gong Labs / VentureBeat, “Gong study: Sales teams using AI generate 77% more revenue per rep,” 2025.

    • Jennifer Li, “Big Ideas 2026: Part 1,” Andreessen Horowitz, December 9, 2025.

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